カナシャル小説
2024/07/25(Thu)
この絵の小説版(5500字)
24旅帰還後カナシャルinヴィクシア、やや欲情、高校時代すけべありルート
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夏の匂いの先
ヴィクシアの夏は眩しい。
カナタが車を降りた途端、肌を撫でる乾いた空気は、ただただ夏の魅力的な暑さを伴っていた。
気温は同程度でも、湯気にまとわりつかれた感覚になる湿度の高いムーサニッシュとは遥かに違い、熱に殺意がない。蝉の声もひとつもない、静謐な夏。
これは夏の観光が潤うわけだ。カナタも、できることなら夏の地上はヴィクシアで暮らしたい。涼しくなる夜には星が見通せることまで知っている。
城の壁や柱が作る日陰を通り、カナタは庭へ向かう。
シャルスと待ち合わせしている、王族の庭。
世間の学生たちが夏休みに入る手前、今年は妨害もなく早めに夏祭り期間の準備を済ませ、会う隙間を作れたらしい。一昨日夜の連絡で、この平日午前に空いていたのはカナタだけだったが。
ちょうど昨日、カナタも先々月の探検記を出版社に送ったところ。おそらく校正は大量にあるだろうから、彼にとっても頃合いの隙間だ。
小姓の少年の案内についていく途中、思い出したかのように、玉ねぎサイズの古式な黄色い小瓶と綿のハンカチを渡された。蓋を開かずとも、なにかの花の良い匂いがする。
陽光をカーテンで包む絵の中に、『サンスクリーン』と華やかな字体が記されている。
「カナタ! 久しぶりだね。キミに会いたかったよ」
「おう、久しぶりシャルス」
趣味の一つである庭いじりを始めたところのようだ。薄い汚れの軍手が手招きをする。
麦わら帽子の中でも日差しに火照り、未だに紅顔の美少年らしい無邪気な顔を綻ばせた。きっとミミズの家族でも見かけたのだろう、そんな笑顔だ。
「日焼け止め。塗るか?」
瓶を手で揺らして見せると、おやそうだった、と気づいた。
宇宙の紫外線より弱い日差しとはいえ、人前に出る人間が油断したものだ。
「ボク、焼けると赤くなるんだよ」
そう言って軍手を脱ぎながら、庭のガゼボへ向かう。
「クラストスーツなら紫外線も平気なんだけどなあ」
「安全な場所でヘルメット被りっぱなしは嫌だろ」
屋根の日陰は涼しい。踏み込んだ途端、風が更に優しくなったのは、囲む植物のおかげかもしれない。きらきらと黄金色の日差しが細かく溢れており、美しい夏につい目を細めた。
シャルスはベンチに横座りし、軍手と帽子をテーブルに置く。軽く顔を拭いてから、タオルも。土仕事だったせいか、以前贈った指輪は、右手の薬指にはなかった。
それから、フリルが豊かなシャツの襟を背中側に広げて、うなじをさらけ出した。
臆面や恥じらいは欠片もなく、ほんのりと赤く熟れる肌を見せびらかす。
「塗ってくれるかな」
普段から使用人に塗らせているのだろう。王族は着衣や脱衣も手伝わせる規律だと聞いたことがある。薄手の生地とはいえ夏でも長袖にタイツのくせして、突然、他人に肌を晒すことには躊躇いがない。
どきりとしたわけではない。カナタは、見慣れている。実のところ、よく知ってもいる。
思い出しかけて、驚く。
何秒だろう、この一瞬。時が動き出すように、さらさらと木の葉に笑われる。
爽やかな風の中で傷ひとつない背中が、白いシルクに透ける。細い腕や腰も、陰で輪郭が見て取れた。見たことのある裸が、隠れているのに、ひどく無防備に映る。
普段から、使用人に、塗らせているのだろう。
事実を反芻すると、なにやら軽く喉に引っかかる。
だから無言で、瓶の蓋を回した。匂いがあふれる。夏に嗅いだことのある匂いだ。カナタでも高級品だと分かる、上品な花の匂い。
シャルスに聞けばこの花の名は分かるだろうけど、そんな気になれずにいる。
目の前の体は、思い出の中で、ふれただけでこちらを求めてくる肌だった。
きっと慢心でなく愛してくれているのが、言葉より瞳より語り、手のひらから心臓へ駆け上ってきていた。
もう大昔かと思えるたった数年前の少年時代に、噛んでくれと乞われた、なんの跡もない首筋。
ほんの数回応えてやった丸い跡は、今はもう僅かにも残っていない。
「カナタ?」
しばらく動きが止まっていたことを、穏やかな疑問符で尋ねられる。
肩越しに向けられる濃い緑色の目線は、あの頃より無垢だ。
「なんでもねえよ」
息を継ぐ代わりに短く笑い飛ばし、預かったハンカチで指を拭う。直接触れる戸惑いに負けて、右の手のひらにクリームを取った。熱くもなく冷たくもない、感覚のやや鈍い義手。
産毛もない、きっと使用人が剃っているであろううなじに、クリームを乗せて伸ばす。
すんなりと馴染み、黄金色が吸い込まれていく。
シャルスは特に何か、くすぐったいだとか反応するでなく、カナタの掌を受け入れているように見えた。顔はもう、あちらに向いている。ふい、と通る何かの虫へ目線が動く。
もし振り向いても、いつも通りだろう。通りから少し道を外れかけていたカナタには、助かったとも言える。二人揃って迷子は厄介だ。
撫でる。女の首ではない、勿論それよりは逞しいが、カナタの手でなら充分に包める首周り。シャツが下ろされて広かった背中にも、手を動かす。
シャツの中にまで手を突っ込めないのは、不埒な意識をしているようで、悔しい気もした。
背骨、肩甲骨を覆うものが、あまりにも薄い筋肉だからこの右手でも感じ取れてしまう。たぶん少し汗に湿って、熱い。
次第に、匂いが変わる。
ゆっくり花開くように、一面に咲くように、懐かしさを嗅ぐわせる。
夏の匂いだ。はっきりと、嗅いだことがあるとかそんな曖昧な記憶ではなく、脳に。
煌めいた夏の光の中に伴う、体の奥底から知っている『夏』の象徴を醒ました。
シャルスの匂いと混じったから、ようやく気づいた。これは夏のシャルスの匂い。
「……いい匂いだな」
「だろ。ヴィクシアの人気定番商品だよ、マリーゴールドの匂い」
シャルスは陽気な声色で答える。
花の名前なんかどうでもよかったのに、聞いたことのある名前だったから、カナタも何故か少し嬉しかった。よく見れば瓶の絵にも描かれた、陽色の花。
「これ、毎年使ってるやつだろ。なんとなく覚えてる」
「キャンプでもこれだったかな。カナタも好きだって言ってくれたよね」
「だっけか」
言ったかもしれない。言ったに違いない。
好きだとか、特にあの頃は軽やかに伝えあっていた。シャルスが愛に満ちた言葉を当たり前にかけてくるから、思春期も終わる年頃だ、少しは返す癖になっていた。
丁寧に綴るロマンスじゃない、あくまで日向のキャッチボール。
それなのに近頃はあまり、カナタからは投げ返していない。
咄嗟に、重さを確かめて抱え込んでしまう、妙な瞬間。
「もっと隅々まで、お願いできるかい?」
奥まで触るのを避けていたことに気づかれた、それだけで鼻先がむずつく。
使用人にも、そんな声色で頼んでいるのだろうか。使用人は何一つ深く思わず、手のひらの熱をただ仕事としてこなすのだろうか、本当に? いや使用人が瓶を渡し、任せてきたくらいだ、まさか親しい客人に頼んだりしているのか。
カナタが今まで夏を感じていた匂いは、こうして他の誰かに塗られていたものだろうか。
「人にやらせてんなよ……」
剥き出しになっていた肩を撫で、骨に沿って人差し指を差し込むと、さらりとしたシャツに挟まれて、波打ち際に手首が捕まる錯覚に陥る。
シャルスは背筋を伸ばし、ふふ、と心地良さそうに吐息を漏らす。
喘ぎ声の三歩手前。
「普段はひとりでやってるよ」
のんびりと返される言葉。つい漏れていた低く小さな声も、シャルスは聞き逃してくれてはいなかった。
「いいだろ。いつかお返ししてやるから覚えとけよ、ってカナタが言ってたんだから」
忘れちゃってたのかな、と小さく首を傾げた。
怒りながら宣言した記憶がある。
隻腕では手間取るさまざまな、風呂や着替えや包帯の巻き直しや、耳かきだの爪切りだの、一方的に身の回りの世話されてばかりで悔しいあまりに。
そのうちの半分は片腕で出来るようになり、更には義手のトレーニングも済んだ頃には、シャルスも世話焼きでもないから離れられて、それもまた寂しい気がしたが……そこは内緒にしておきたい。
なんだ。いっつも自分でやってたのか。そうかそうか。
「なるほどな、今が仕返しのチャンスってわけか」
「さあボクを好きにしてごらん、意外と楽しいものだよ」
「好き勝手やってたってことかよ」
その通りとばかりに、キャバキャバとふやけて笑う。
好き勝手、とは言うもののシャルスはいつも丁寧だった。興奮する様子が気持ち悪いのは確かだが、乱雑なことはなく大切にされた。だからこそ、甘くすっぽりと溺れてしまいそうで気恥ずかしかったのだが。
じゃあ、こちらもそんなふうに。少しくらいは恥じらわせてやろう。
「ほら、顔向けろよ。焼かないならまず顔が一番だろ」
「はーい」
新たにクリームを両手に広げて揉んでから、振り向いたシャルスの頬を挟む。左手がようやく、熱くて柔らかいことを教えてきた。少し肉が足りない気がしたから、揉みながら変な顔にする。
宇宙探検中に2、3キロ増えていたはずだが、会わない間に戻ったような。いいものを食べているから、肌艶も髪質もいいのだけれど。
撫で回していると、骨格からして均整の良さを実感した。もみくちゃなひどい顔にさせているのに、どうにも美形だと思い知らされる。
そのまま中央へ親指を伸ばしたり、顎の下へ手を差し出す。くすぐりを堪えてか、シャルスは閉じた唇を震わせて、瞳も伏せていた。
丁寧にするんだった、と思い出すが、正しい塗り方をカナタは知らない。ただ、顔を隅々まで好きなように撫で回した。
喉にも、ひたいにも。小さめの喉仏が、くると動く。僅かに湿った金髪が揺れる。
鼻梁にも、目の周りや、口の周りにも。滑らかに、瑞々しい熱を感じた。
どれも繊細な形をしている。どこも何かを強調するでもなく控えめだが、光が透けていくような華がある。マリーゴールドというより白いチューリップ。
「ん、」
つい唇に指を這わせると、一際柔らかい。シャルスは片目を一瞬だけ薄く開いたあと、またすぐ閉じた。また少しだけ笑いながら。
「あとはー、耳か」
予告とするには殆ど同時に、両方の耳朶に触れる。指で複雑な形を這う。裏を撫でる。
ふふ、とまた吐息をこぼした。二歩手前。
「んっ、くすぐったいよカナタ……」
「変な声出すな」
シャルスは緩く、身じろぎをして遠ざかりかけたが、そのままここに身を委ねている。
分かっていたが、耳が少し弱い。妙に艶のある声を出されるかもと心の準備はしていたから、思っていたより妙でもなかった。
開いた緑色の瞳が、カナタの瞳を見ている。暑さに、だろう薄っすら頬を上気させ、何をされてもいいとばかりに見つめてくる。垂れ気味の目尻は、そんな錯覚を招く。
心地よい匂いに惑わされている。
整った形の爪が並ぶ右手を差し伸べられて、どうしたと思いながらも、左手で受け取る。
手を引き寄せられ、鎖骨に誘導される。まだそこもあったか。開いたシャツの胸元は、いつもより速い心音が聞こえた。これも暑いから、だろう。
左右に広がる骨をなぞり、肩へ向かう。シャツが邪魔だ、と一瞬だけ駆け抜ける。脳には留まらず去ったのに、足跡だけは残していく。
ちがう、露出した部分だけでいい、はずだ。大胆に開いた三角の部分を、適度に塗ってしまえばそれでいい。襟に覆われている奥まで触る必要はない。薄く肋骨を感じながら、胸の鼓動に寄り添うのは、たった数秒。
熱い音。微かな鼓動が伝える、シャルスが生きている実感。
元気に生きてりゃそれでいい……ってわけでもないが、とにかく今はなんとなく、まずい。
緊張も動揺も隠したつもりで、離れかけた途端に両手を重ねられた。大切なメッセージでも記すように、手を擦り合わされる。
「今日は暑いよ、カナタも塗らなきゃね」
「オレは家で塗ってきてんだよ、やめろやめろ」
そう言っても聞かなくていいと判断されて、胸元に乗せたままの左手に残った湿り気を伸ばしてくる。指の付け根の一番くすぐったいところに、丁寧に塗り込む。こそばゆいし、つい塗らずに済ますところだ。バレている。
「カナタ、ここ好きだねぇ」
「オレの好きにさせるんじゃなかったのかよ」
堪えきれなくなったのか、奉仕しだしたシャルスの手を右手で捕まえて、負けじと塗り返す。なんなら瓶を持つのはこちら側、カナタはクリームを足して弾力のやや硬い手のひらをほぐしてやる。多すぎてはみ出した分が、ゆっくりと手の甲やシャツを伝っていく。
「なんだかこれ、ううん、なんでもない」
シャルスがようやく何かに気づきかけるが、言葉にすれば終わることを先に気づく。
十五本、いちいち指が絡んで、戯れるように暴れてくるうち、どれを塗ったか分からなくなる。お陰で、十本以上を撫で回した気がする。指の腹も窪みも節も、隈なく。
精緻なレースに覆われた手首も掴むと、布が豊かな袖は、するりと肘の近くまで露出させた。薄い筋肉が皮膚のすぐ下にある、基礎は男だがやはり細い腕。カナタ自身と比べてしまうせいもあるが。
もしかして、宇宙で未知の生物を食べないとコイツは太れねえのかもな、となると困った男だ。
またたらふく食わせてやらねえと。
「なんだい、妙に嬉しそうな顔して」
「してねえよ、シャルスこそだろ」
「じゃあ、うつったのかな。カナタから」
楽しそうに減らず口をする。どうせお互いにだと、お互いわかっている。
鼻先をシャルスの右手首に寄せると、やはりいい匂いがした。嗅いでいるのに気づいてか、シャルスもカナタの指先へ頬擦り間際くらいに顔を寄せる。
落ち着くようで少し刺激的な、陽射しに照らされた命の匂い。
夏のこの匂いは、しばらく続く。そのあとはきっと、秋じゃない。
宇宙の匂いを嗅ぎにいく。
24旅帰還後カナシャルinヴィクシア、やや欲情、高校時代すけべありルート
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夏の匂いの先
ヴィクシアの夏は眩しい。
カナタが車を降りた途端、肌を撫でる乾いた空気は、ただただ夏の魅力的な暑さを伴っていた。
気温は同程度でも、湯気にまとわりつかれた感覚になる湿度の高いムーサニッシュとは遥かに違い、熱に殺意がない。蝉の声もひとつもない、静謐な夏。
これは夏の観光が潤うわけだ。カナタも、できることなら夏の地上はヴィクシアで暮らしたい。涼しくなる夜には星が見通せることまで知っている。
城の壁や柱が作る日陰を通り、カナタは庭へ向かう。
シャルスと待ち合わせしている、王族の庭。
世間の学生たちが夏休みに入る手前、今年は妨害もなく早めに夏祭り期間の準備を済ませ、会う隙間を作れたらしい。一昨日夜の連絡で、この平日午前に空いていたのはカナタだけだったが。
ちょうど昨日、カナタも先々月の探検記を出版社に送ったところ。おそらく校正は大量にあるだろうから、彼にとっても頃合いの隙間だ。
小姓の少年の案内についていく途中、思い出したかのように、玉ねぎサイズの古式な黄色い小瓶と綿のハンカチを渡された。蓋を開かずとも、なにかの花の良い匂いがする。
陽光をカーテンで包む絵の中に、『サンスクリーン』と華やかな字体が記されている。
「カナタ! 久しぶりだね。キミに会いたかったよ」
「おう、久しぶりシャルス」
趣味の一つである庭いじりを始めたところのようだ。薄い汚れの軍手が手招きをする。
麦わら帽子の中でも日差しに火照り、未だに紅顔の美少年らしい無邪気な顔を綻ばせた。きっとミミズの家族でも見かけたのだろう、そんな笑顔だ。
「日焼け止め。塗るか?」
瓶を手で揺らして見せると、おやそうだった、と気づいた。
宇宙の紫外線より弱い日差しとはいえ、人前に出る人間が油断したものだ。
「ボク、焼けると赤くなるんだよ」
そう言って軍手を脱ぎながら、庭のガゼボへ向かう。
「クラストスーツなら紫外線も平気なんだけどなあ」
「安全な場所でヘルメット被りっぱなしは嫌だろ」
屋根の日陰は涼しい。踏み込んだ途端、風が更に優しくなったのは、囲む植物のおかげかもしれない。きらきらと黄金色の日差しが細かく溢れており、美しい夏につい目を細めた。
シャルスはベンチに横座りし、軍手と帽子をテーブルに置く。軽く顔を拭いてから、タオルも。土仕事だったせいか、以前贈った指輪は、右手の薬指にはなかった。
それから、フリルが豊かなシャツの襟を背中側に広げて、うなじをさらけ出した。
臆面や恥じらいは欠片もなく、ほんのりと赤く熟れる肌を見せびらかす。
「塗ってくれるかな」
普段から使用人に塗らせているのだろう。王族は着衣や脱衣も手伝わせる規律だと聞いたことがある。薄手の生地とはいえ夏でも長袖にタイツのくせして、突然、他人に肌を晒すことには躊躇いがない。
どきりとしたわけではない。カナタは、見慣れている。実のところ、よく知ってもいる。
思い出しかけて、驚く。
何秒だろう、この一瞬。時が動き出すように、さらさらと木の葉に笑われる。
爽やかな風の中で傷ひとつない背中が、白いシルクに透ける。細い腕や腰も、陰で輪郭が見て取れた。見たことのある裸が、隠れているのに、ひどく無防備に映る。
普段から、使用人に、塗らせているのだろう。
事実を反芻すると、なにやら軽く喉に引っかかる。
だから無言で、瓶の蓋を回した。匂いがあふれる。夏に嗅いだことのある匂いだ。カナタでも高級品だと分かる、上品な花の匂い。
シャルスに聞けばこの花の名は分かるだろうけど、そんな気になれずにいる。
目の前の体は、思い出の中で、ふれただけでこちらを求めてくる肌だった。
きっと慢心でなく愛してくれているのが、言葉より瞳より語り、手のひらから心臓へ駆け上ってきていた。
もう大昔かと思えるたった数年前の少年時代に、噛んでくれと乞われた、なんの跡もない首筋。
ほんの数回応えてやった丸い跡は、今はもう僅かにも残っていない。
「カナタ?」
しばらく動きが止まっていたことを、穏やかな疑問符で尋ねられる。
肩越しに向けられる濃い緑色の目線は、あの頃より無垢だ。
「なんでもねえよ」
息を継ぐ代わりに短く笑い飛ばし、預かったハンカチで指を拭う。直接触れる戸惑いに負けて、右の手のひらにクリームを取った。熱くもなく冷たくもない、感覚のやや鈍い義手。
産毛もない、きっと使用人が剃っているであろううなじに、クリームを乗せて伸ばす。
すんなりと馴染み、黄金色が吸い込まれていく。
シャルスは特に何か、くすぐったいだとか反応するでなく、カナタの掌を受け入れているように見えた。顔はもう、あちらに向いている。ふい、と通る何かの虫へ目線が動く。
もし振り向いても、いつも通りだろう。通りから少し道を外れかけていたカナタには、助かったとも言える。二人揃って迷子は厄介だ。
撫でる。女の首ではない、勿論それよりは逞しいが、カナタの手でなら充分に包める首周り。シャツが下ろされて広かった背中にも、手を動かす。
シャツの中にまで手を突っ込めないのは、不埒な意識をしているようで、悔しい気もした。
背骨、肩甲骨を覆うものが、あまりにも薄い筋肉だからこの右手でも感じ取れてしまう。たぶん少し汗に湿って、熱い。
次第に、匂いが変わる。
ゆっくり花開くように、一面に咲くように、懐かしさを嗅ぐわせる。
夏の匂いだ。はっきりと、嗅いだことがあるとかそんな曖昧な記憶ではなく、脳に。
煌めいた夏の光の中に伴う、体の奥底から知っている『夏』の象徴を醒ました。
シャルスの匂いと混じったから、ようやく気づいた。これは夏のシャルスの匂い。
「……いい匂いだな」
「だろ。ヴィクシアの人気定番商品だよ、マリーゴールドの匂い」
シャルスは陽気な声色で答える。
花の名前なんかどうでもよかったのに、聞いたことのある名前だったから、カナタも何故か少し嬉しかった。よく見れば瓶の絵にも描かれた、陽色の花。
「これ、毎年使ってるやつだろ。なんとなく覚えてる」
「キャンプでもこれだったかな。カナタも好きだって言ってくれたよね」
「だっけか」
言ったかもしれない。言ったに違いない。
好きだとか、特にあの頃は軽やかに伝えあっていた。シャルスが愛に満ちた言葉を当たり前にかけてくるから、思春期も終わる年頃だ、少しは返す癖になっていた。
丁寧に綴るロマンスじゃない、あくまで日向のキャッチボール。
それなのに近頃はあまり、カナタからは投げ返していない。
咄嗟に、重さを確かめて抱え込んでしまう、妙な瞬間。
「もっと隅々まで、お願いできるかい?」
奥まで触るのを避けていたことに気づかれた、それだけで鼻先がむずつく。
使用人にも、そんな声色で頼んでいるのだろうか。使用人は何一つ深く思わず、手のひらの熱をただ仕事としてこなすのだろうか、本当に? いや使用人が瓶を渡し、任せてきたくらいだ、まさか親しい客人に頼んだりしているのか。
カナタが今まで夏を感じていた匂いは、こうして他の誰かに塗られていたものだろうか。
「人にやらせてんなよ……」
剥き出しになっていた肩を撫で、骨に沿って人差し指を差し込むと、さらりとしたシャツに挟まれて、波打ち際に手首が捕まる錯覚に陥る。
シャルスは背筋を伸ばし、ふふ、と心地良さそうに吐息を漏らす。
喘ぎ声の三歩手前。
「普段はひとりでやってるよ」
のんびりと返される言葉。つい漏れていた低く小さな声も、シャルスは聞き逃してくれてはいなかった。
「いいだろ。いつかお返ししてやるから覚えとけよ、ってカナタが言ってたんだから」
忘れちゃってたのかな、と小さく首を傾げた。
怒りながら宣言した記憶がある。
隻腕では手間取るさまざまな、風呂や着替えや包帯の巻き直しや、耳かきだの爪切りだの、一方的に身の回りの世話されてばかりで悔しいあまりに。
そのうちの半分は片腕で出来るようになり、更には義手のトレーニングも済んだ頃には、シャルスも世話焼きでもないから離れられて、それもまた寂しい気がしたが……そこは内緒にしておきたい。
なんだ。いっつも自分でやってたのか。そうかそうか。
「なるほどな、今が仕返しのチャンスってわけか」
「さあボクを好きにしてごらん、意外と楽しいものだよ」
「好き勝手やってたってことかよ」
その通りとばかりに、キャバキャバとふやけて笑う。
好き勝手、とは言うもののシャルスはいつも丁寧だった。興奮する様子が気持ち悪いのは確かだが、乱雑なことはなく大切にされた。だからこそ、甘くすっぽりと溺れてしまいそうで気恥ずかしかったのだが。
じゃあ、こちらもそんなふうに。少しくらいは恥じらわせてやろう。
「ほら、顔向けろよ。焼かないならまず顔が一番だろ」
「はーい」
新たにクリームを両手に広げて揉んでから、振り向いたシャルスの頬を挟む。左手がようやく、熱くて柔らかいことを教えてきた。少し肉が足りない気がしたから、揉みながら変な顔にする。
宇宙探検中に2、3キロ増えていたはずだが、会わない間に戻ったような。いいものを食べているから、肌艶も髪質もいいのだけれど。
撫で回していると、骨格からして均整の良さを実感した。もみくちゃなひどい顔にさせているのに、どうにも美形だと思い知らされる。
そのまま中央へ親指を伸ばしたり、顎の下へ手を差し出す。くすぐりを堪えてか、シャルスは閉じた唇を震わせて、瞳も伏せていた。
丁寧にするんだった、と思い出すが、正しい塗り方をカナタは知らない。ただ、顔を隅々まで好きなように撫で回した。
喉にも、ひたいにも。小さめの喉仏が、くると動く。僅かに湿った金髪が揺れる。
鼻梁にも、目の周りや、口の周りにも。滑らかに、瑞々しい熱を感じた。
どれも繊細な形をしている。どこも何かを強調するでもなく控えめだが、光が透けていくような華がある。マリーゴールドというより白いチューリップ。
「ん、」
つい唇に指を這わせると、一際柔らかい。シャルスは片目を一瞬だけ薄く開いたあと、またすぐ閉じた。また少しだけ笑いながら。
「あとはー、耳か」
予告とするには殆ど同時に、両方の耳朶に触れる。指で複雑な形を這う。裏を撫でる。
ふふ、とまた吐息をこぼした。二歩手前。
「んっ、くすぐったいよカナタ……」
「変な声出すな」
シャルスは緩く、身じろぎをして遠ざかりかけたが、そのままここに身を委ねている。
分かっていたが、耳が少し弱い。妙に艶のある声を出されるかもと心の準備はしていたから、思っていたより妙でもなかった。
開いた緑色の瞳が、カナタの瞳を見ている。暑さに、だろう薄っすら頬を上気させ、何をされてもいいとばかりに見つめてくる。垂れ気味の目尻は、そんな錯覚を招く。
心地よい匂いに惑わされている。
整った形の爪が並ぶ右手を差し伸べられて、どうしたと思いながらも、左手で受け取る。
手を引き寄せられ、鎖骨に誘導される。まだそこもあったか。開いたシャツの胸元は、いつもより速い心音が聞こえた。これも暑いから、だろう。
左右に広がる骨をなぞり、肩へ向かう。シャツが邪魔だ、と一瞬だけ駆け抜ける。脳には留まらず去ったのに、足跡だけは残していく。
ちがう、露出した部分だけでいい、はずだ。大胆に開いた三角の部分を、適度に塗ってしまえばそれでいい。襟に覆われている奥まで触る必要はない。薄く肋骨を感じながら、胸の鼓動に寄り添うのは、たった数秒。
熱い音。微かな鼓動が伝える、シャルスが生きている実感。
元気に生きてりゃそれでいい……ってわけでもないが、とにかく今はなんとなく、まずい。
緊張も動揺も隠したつもりで、離れかけた途端に両手を重ねられた。大切なメッセージでも記すように、手を擦り合わされる。
「今日は暑いよ、カナタも塗らなきゃね」
「オレは家で塗ってきてんだよ、やめろやめろ」
そう言っても聞かなくていいと判断されて、胸元に乗せたままの左手に残った湿り気を伸ばしてくる。指の付け根の一番くすぐったいところに、丁寧に塗り込む。こそばゆいし、つい塗らずに済ますところだ。バレている。
「カナタ、ここ好きだねぇ」
「オレの好きにさせるんじゃなかったのかよ」
堪えきれなくなったのか、奉仕しだしたシャルスの手を右手で捕まえて、負けじと塗り返す。なんなら瓶を持つのはこちら側、カナタはクリームを足して弾力のやや硬い手のひらをほぐしてやる。多すぎてはみ出した分が、ゆっくりと手の甲やシャツを伝っていく。
「なんだかこれ、ううん、なんでもない」
シャルスがようやく何かに気づきかけるが、言葉にすれば終わることを先に気づく。
十五本、いちいち指が絡んで、戯れるように暴れてくるうち、どれを塗ったか分からなくなる。お陰で、十本以上を撫で回した気がする。指の腹も窪みも節も、隈なく。
精緻なレースに覆われた手首も掴むと、布が豊かな袖は、するりと肘の近くまで露出させた。薄い筋肉が皮膚のすぐ下にある、基礎は男だがやはり細い腕。カナタ自身と比べてしまうせいもあるが。
もしかして、宇宙で未知の生物を食べないとコイツは太れねえのかもな、となると困った男だ。
またたらふく食わせてやらねえと。
「なんだい、妙に嬉しそうな顔して」
「してねえよ、シャルスこそだろ」
「じゃあ、うつったのかな。カナタから」
楽しそうに減らず口をする。どうせお互いにだと、お互いわかっている。
鼻先をシャルスの右手首に寄せると、やはりいい匂いがした。嗅いでいるのに気づいてか、シャルスもカナタの指先へ頬擦り間際くらいに顔を寄せる。
落ち着くようで少し刺激的な、陽射しに照らされた命の匂い。
夏のこの匂いは、しばらく続く。そのあとはきっと、秋じゃない。
宇宙の匂いを嗅ぎにいく。
No.3198|彼方のアストラ関連|