異文化について考える
2010/07/22(Thu)
暑い日が続きますね。
さて、ところで先日思ったんだ。すごくひとりごと。
アルスフ漫画のときにも書いた「二次元の世界で日本語を喋っている以上、言語の類はとある力で翻訳されてから、こちらに介入した視覚・聴覚情報である」という考え方と、先日知った「北米版でのアルコール規制」(名称の変更)を掛け合わせてみると、エクスペルの食べ物が日本ととてもよく似ていることでさえ、翻訳されたものなのではないか、とか思いました。
それの翻訳をしたのは神の次元を超越した何かというもの想像だから、ニュアンスだけは維持しているの。突拍子もない変なものではなく、彼の場所にあるこちらと列を成せるもの。でもアメーバスープはやっぱりアメーバ。
まぁ、『同じもの』という不思議さでも、過去の地球人介在説さえあれば充分だけど。地球でさえ、日本でさえ、あんなに違うんだよなぁ。ああでも同じ料理を作っても、ハーリーとヒルトンで味が違ったりもするかもね。伝達技術がそれほど発達していないという状況で、ある程度の広さがあるんだから、世界が均一になることは寂しいんだ。
文化って悪く言えば、内輪ネタだと思う。つまり、それがなくても平和や交流はできるはずなのだけど、決して全ての人間に届くわけではないものが、一部の旧友者たちと安心感や面白さを生むことが多々あるよねっていう。誰もが均一な感覚を共有する世界が、どれだけ気持ち悪いのかってのは、たとえば出版される本が「ヒット作」しかないってことじゃないか?
だけどそういう世界で、ほんの少しの差異を好むことをマニアックだと称することがあったとしても、この世界が本当にそうではない比較対象もない。ほんの少しの差異かもしれないんだ。パンとホモサピエンスが、遺伝子上ほぼ近いものであるように、大きな差のあるものがこの世に存在していないかもしれない。自分に近いものしか、認識できていないかもしれないんだ。
何かを見たとき、それが既存の概念を越えている場合、己の理解できる範疇に解釈をするということがあるよね。不思議な体験をしたときに、科学的な知識で解明できることを「奇跡」と呼ぶこともそうだし、不思議な体験をしたときに、奇跡が起こっていたのに「科学」だと納得することもそうだ。奇跡も科学も信じなければ、偶然だとしてもいい。
そうしたことの積み重ねで、真実がそれぞれ人によって変わって来ることがある。私たちは、同じものを見て異なるものを認識している。多くの動物が、色のない世界を暮らしているように。殆ど同じものを見られる人間もいるだろう。けれど、少し色が違うかもしれない。同じだと、信じあっていればそれで充分だ。本来、同じことが大事なのではないから。同じであることを安心するのは、いつも好意と信頼を前提としている。生命は同一化を望むことがある。あれだ、内臓を寄り添わせる儀式は、決して同一ではないが同一ならではの証明と近似値という結果を作る。たぶん、同じものはただひとつとしてない。文化の違いがそうさせるのではなくて、同じように育った人間でも。実験のレベルで全く同一に育てたとしても、きっと同じものが見られるとは限らない。クローンはオリジナルと同じ人生を歩めない。
自分が見ているものが『自分にとっての真実』にしかならないことと同時に、他者が見ていることが自分と違っていても、それが真実だと思わなくてはならないこともある。拒絶したり、受け入れば、明らかに間違っていてもそちらが真実になる。自由にすればいい、どうせ間違うのだから。真実なんてない。嘘もない。だから世界は強い。
私は、概念を疑うのが好きだ。概念を愛するのが好きだ。
概念を否定し肯定して、自己満足に浸るのが好きだ。
概念からは愛されていない、疑うどころか、興味を向けられてもいない。だからいい。
頻繁に、突然意見を翻して真逆のことを言うのも、それもそれでそうだと信じているからだ。
ほぐしてから漫画にするんで、ちょい未来で待ってて。
理屈屋はめんどくせぇな。感性のほうがいつも面白いものを作る。
さて、ところで先日思ったんだ。すごくひとりごと。
アルスフ漫画のときにも書いた「二次元の世界で日本語を喋っている以上、言語の類はとある力で翻訳されてから、こちらに介入した視覚・聴覚情報である」という考え方と、先日知った「北米版でのアルコール規制」(名称の変更)を掛け合わせてみると、エクスペルの食べ物が日本ととてもよく似ていることでさえ、翻訳されたものなのではないか、とか思いました。
それの翻訳をしたのは神の次元を超越した何かというもの想像だから、ニュアンスだけは維持しているの。突拍子もない変なものではなく、彼の場所にあるこちらと列を成せるもの。でもアメーバスープはやっぱりアメーバ。
まぁ、『同じもの』という不思議さでも、過去の地球人介在説さえあれば充分だけど。地球でさえ、日本でさえ、あんなに違うんだよなぁ。ああでも同じ料理を作っても、ハーリーとヒルトンで味が違ったりもするかもね。伝達技術がそれほど発達していないという状況で、ある程度の広さがあるんだから、世界が均一になることは寂しいんだ。
文化って悪く言えば、内輪ネタだと思う。つまり、それがなくても平和や交流はできるはずなのだけど、決して全ての人間に届くわけではないものが、一部の旧友者たちと安心感や面白さを生むことが多々あるよねっていう。誰もが均一な感覚を共有する世界が、どれだけ気持ち悪いのかってのは、たとえば出版される本が「ヒット作」しかないってことじゃないか?
だけどそういう世界で、ほんの少しの差異を好むことをマニアックだと称することがあったとしても、この世界が本当にそうではない比較対象もない。ほんの少しの差異かもしれないんだ。パンとホモサピエンスが、遺伝子上ほぼ近いものであるように、大きな差のあるものがこの世に存在していないかもしれない。自分に近いものしか、認識できていないかもしれないんだ。
何かを見たとき、それが既存の概念を越えている場合、己の理解できる範疇に解釈をするということがあるよね。不思議な体験をしたときに、科学的な知識で解明できることを「奇跡」と呼ぶこともそうだし、不思議な体験をしたときに、奇跡が起こっていたのに「科学」だと納得することもそうだ。奇跡も科学も信じなければ、偶然だとしてもいい。
そうしたことの積み重ねで、真実がそれぞれ人によって変わって来ることがある。私たちは、同じものを見て異なるものを認識している。多くの動物が、色のない世界を暮らしているように。殆ど同じものを見られる人間もいるだろう。けれど、少し色が違うかもしれない。同じだと、信じあっていればそれで充分だ。本来、同じことが大事なのではないから。同じであることを安心するのは、いつも好意と信頼を前提としている。生命は同一化を望むことがある。あれだ、内臓を寄り添わせる儀式は、決して同一ではないが同一ならではの証明と近似値という結果を作る。たぶん、同じものはただひとつとしてない。文化の違いがそうさせるのではなくて、同じように育った人間でも。実験のレベルで全く同一に育てたとしても、きっと同じものが見られるとは限らない。クローンはオリジナルと同じ人生を歩めない。
自分が見ているものが『自分にとっての真実』にしかならないことと同時に、他者が見ていることが自分と違っていても、それが真実だと思わなくてはならないこともある。拒絶したり、受け入れば、明らかに間違っていてもそちらが真実になる。自由にすればいい、どうせ間違うのだから。真実なんてない。嘘もない。だから世界は強い。
私は、概念を疑うのが好きだ。概念を愛するのが好きだ。
概念を否定し肯定して、自己満足に浸るのが好きだ。
概念からは愛されていない、疑うどころか、興味を向けられてもいない。だからいい。
頻繁に、突然意見を翻して真逆のことを言うのも、それもそれでそうだと信じているからだ。
ほぐしてから漫画にするんで、ちょい未来で待ってて。
理屈屋はめんどくせぇな。感性のほうがいつも面白いものを作る。
No.803|未選択|